19・戦後の日韓(1)

19・戦後の日韓関係
(1)・日韓条約「前・後」〜(1)・(2)・(3)・(4)
戦後の「韓国史」は自画自賛をしないと国民の指導は出来ません。日本の敗戦と同時に自らの力で教育・経済の自立を求められた中で「日本時代」の人材を登用しても、経済基盤となる筈の、日本が残した工業施設が北朝鮮に有り、設備も使えない上、対日輸出の米が主力で有った南部地区の農産品も対日輸出も出来ない。李承晩反日政権は、アメリカの全面無償援助に頼るより方法が無く「独立宣言」も,1948年(昭和23年)まで出来ませんでした。

李承晩時代を「世界最貧国」として過ごします。(*一位はフィリピンです)1960年には僅か3300万ドルに過ぎなかった輸出額が、日韓条約後の1969年には6,2億ドルに上昇、経済成長率も「朴大統領」の第一次5カ年計画では8・3%、、第二次では11・7%を示しています。
国際的にも驚異的な数字であり、「漢江の奇跡」と呼ばれるのですが、こうした発展についての要因が、「韓・米経済技術協定」・「ベトナム戦争派遣」・「日韓条約」などが有ったとは、教科書には記載される事は有りません。

日本を排除した北朝鮮と、受け入れた韓国との格差が拡大する第一歩もこの時期に当たります。
北朝鮮も「韓国」から約一ヵ月遅れて、「朝鮮民主主義人民共和国」を樹立、韓国は全面的にアメリカの援助を受ける事で、国際連盟大韓民国を、「朝鮮における唯一の合法政府」として承認しますが、日本との交流を拒否していたが為、日韓条約まで「世界の最貧国」としての悲哀を味わうことに成ったのです。
北朝鮮」は、北部旧日本の水力発電所・造船所・鉄工所・化学工業を使い、ソ連が持ち帰った工作機械を除き、それを運用した工業力では1965年(昭和40年)時点で韓国を上回っていました。

「李承晩」大統領の「韓国政府」は1949年(昭和24年)に「在日韓国人」の「国籍」は韓国に有ると宣言したまま放置、在日韓国人は国籍韓国、生活基盤は日本と中途半端な状況で、両国の狭間で日本人とも韓国人とも分からない立場で「放置」される事に成ったのです。
李承晩の「反日政策」が戦後の、日韓関係を完全に歪めてしまった責任は非常に大きいものと言わざるを得ません。

現在は、不法入国で日本に来た人、朝鮮戦争からの逃亡と、滞在した人達も渾然として韓国人ニューカマーの帰化も増えました。「在日」と呼ばれる「特別永住権許可」を受けた人は、子孫も権利を永久に保護され、日本人・韓国人以上の権利を有して両国で自由に活躍できる。
日本・韓国での義務・権利も行使は自由と言う「権限」を保有した「特別」の人達に成っている不公平感を日本人・韓国人も感じる、異常な状況を放置した侭で日韓交流は続いているのです。
                           
*法的な問題点としては、「帰化は条件なく5年」の滞在で可、「永住権は多少の条件が必要で10年」の滞在で取得できる?非常に歪な法律と思わない政治もおかしい事です。  〜続きます

18・関東大震災(1)

18・関東大震災朝鮮人虐殺(6,000人)(1)・(2)
 (1)*「朝鮮人虐殺、6,000人説」は、1976年に「朴慶植」の「韓国独立運動の血書」の中で「6千名の虐殺」の数字が定着したものですが、日本の内務省・第一師団・警視庁・赤十字資料や、独立新聞等と比較検証すると大きく数字が異なります。
1923年(大正12年)の起こった大地震での被害状況は、被災340万名・死者91,344名・行方不明13,275名・重症6,513名・軽傷5,560名・全焼381090世帯・半壊91,232世帯で損害額は55億円(前年度国家予算が14億7千万円)ですから厖大な損害です。

関東大震災について、韓国教科書は日本在住同胞が、6,000人虐殺されたとしています。
震災時、左翼運動家の暴動と誤報、北海道のマスコミから伝えられ始めたので、軍は厳戒令を出して報道に乗せられないように警告・保護対策をとりました。当時に状況下、民衆の不安が自警団の結成と成り自警団による殺人が有ったのは事実です。

「韓国教科書」の、6,000名虐殺記載は「朴慶植」の記事までは一致した数字は無く、独立新聞の、「李相協記者」の一週間の調査の、6,661〜6,268名虐殺(根拠なし)、「金健氏」(上海在住・関学出身)の上海からの檄文の中に、3,680名の虐殺の数字が記載されています。

独立グループの「調査報告」で、目視死体の朝鮮人遺体2,861名・警察による殺人577名・騎兵隊による殺人3,100名(根拠なし)・未確認殺人?(意味不明)3,249名、計14,787名等を装飾「虐殺」としていました。

その他、独立新聞社特派員報告として遺体未発見数?(意味不明)3,240人、遺体発見同胞数?1,165名、合計4,405名と、意味不明の数字も出てきます。加えて「欧米委員事務員」?の「朱栄諭」が日本政府に賠償を諭窮するとして、3,655名が殺されたと数字だけを書いた杜撰なものです。

当時の戸口調査で、関東地区の朝鮮人人口は11,907名、、帰郷中の学生が1,200名が居ましたので、震災時の関東地域の朝鮮人は、約10,700名程度と計算できます。地震での朝鮮人の犠牲は0と言う事は有り得ませんので、上記の虐殺記事の根拠は曖昧です。〜続きます

17・抗日「光復軍」とは?

17・韓国光復軍
 *(朝鮮総督府資料)
教科書は、「韓国光復軍は総司令官・池青天、支隊長・李範爽などを中心に、シナに駐屯していたアメリカ軍と連合し、国土の失地回復作戦の任務を担当する国内挺身隊を編成し、特殊訓練を実施し、飛行隊の編成を計画した。
太平洋戦争では、対日・対ドイツに宣戦布告をし、韓国光復軍は大陸では中国軍と協力、ミヤンマー(ビルマ)ではインド戦線に派遣、イギリス軍と連合作戦を行い日本軍と戦った。
光復軍は9月に実行しようと準備中だったが、国内侵入作戦は、日本の降伏で実現できずに降伏を迎えたのである」と教えています。

韓国光復軍とは間島・青山里で戦った、「洪範図部隊」その他の事を指すのでしょうが、それ以外では日本軍と朝鮮独立軍?が戦った記録は有りません。
1920年大正9年)以降には大きな朝鮮国内での反日運動も無く、特に日支事変後の朝鮮内では、日本軍への志願者が増え、多くの人が募集に応じています。

日支事変後の、1938年(昭和13年)以降は日本軍への志願兵募集では、408名の採用に、2,948名、1943年には5,300名の採用に303、294名の応募7・7倍から56,7倍の倍率と内務省資料が存在しており、戦場では既に日本の士官学校を卒業した「朝鮮人将校」が日本兵を指揮をしています。他の植民地(と呼ぶなら)、英・米・仏・蘭の統治地区では見られない現象です。

徴兵制も、1944年(昭和19年)に、当時の新聞では、「朝鮮の民意に応え徴兵制」と報道、台湾は1945年(昭和20年)からと伝えています。
徴兵制度で、1945年(昭和19年)には、陸・海で55,000名が訓練中に終戦を迎えていますので、この制度の中での朝鮮・台湾の戦死者は有りません。

日本「陸軍戦記」では、志願朝鮮兵部隊は、唯一第49師団「日本軍歩兵106連隊」(十時和彦連隊長)の、京城で編成された朝鮮人主力部隊分隊の「狼18702」が、1944年(昭和19年)に英・インド軍との交戦で、1,342名の戦死者を出し、兵士は「靖国神社」に祀られています。航空隊士官も参加され、特攻兵士として散華されています。
韓国光復軍」と言う存在は、日本軍交戦記録は残っていません。                    〜続きます

16・3・1抗日運動(2)

(2)・総督府の対応、3・1運動後に朝鮮総督府は、施政に危機感を持ち、1920年に総監部調査のアンケートで民心の把握に努めようとしています。内容は下記の通り。
                                                   
3・1運動後の1920年(大正9年)施政に対する感想集計
朝鮮総督府資料)
*(1)・感謝しているもの。
 治安の安定・四民平等・交通・土地所有・裁判の公平・医療機関に〜〜「喜悦している」
*(2)・苦痛としている。
 墓地規制(共同墓地)・火田取締り・税金・管理給与不平等(先生)〜〜「不満で有る」
文化の違いも認識し、日本からの派遣「増額」が、朝鮮人官吏・教員の誤解に成っている事も原因であると、政策を変えていきます。

結果「韓国教科書」でも、1920年代に入り〜「農業振興・青少年教育・女性運動・労働運動・文学・映画・小説・戯曲・随筆が活発となり、文人協会・音楽協会・演劇協会と活発な運動が展開され、近代文化の成長期に入った」と記していますから、朝鮮総督府の朝鮮振興策は成功したものと言えます。加えて教科書には、朝鮮最初の飛行士としての「安昌男」の記事も書いていますが「安氏」について説明します。

「安昌男氏」は朝鮮初の飛行士として、東京から祖国訪問をする計画で、東京の「帝国ホテル」に夫妻が逗留中に「関東大震災」が起こりますが、無事帰国されています。教科書には書かれて居ませんが、「帝国ホテル」滞在中も差別も受けず、特別の人しか逗留出来ないホテルで、飛行士夫妻が宿泊、優遇されて居た事は差別がないと云う証しでも有ります。
関東大震災の時に起こったと言われる朝鮮人虐殺については後日記載します。                         〜光復軍に続きます。

16・3・1抗日運動(1)

16・3・1独立運動(1)・(2)

3・1運動を始め、韓国教科書の「抗日抵抗」の記述が酷くなるのは、「青山里大捷」同様、1976年(昭和51年)朴慶植」著作による「朝鮮3・1独立運動」の根拠のない記事からです。

「韓国教科書」は〜「3・1独立運動で、死者7,509名・負傷15,961名、日本軍は2大隊二万名の憲兵を動員弾圧」と教科書では教えています、これも「朴慶植」からの数字です。
日本資料は、朝鮮総督府・「警務部」の公式資料で、日本人・朝鮮人の死者・負傷者として、日本軍人死者2名・負傷33名、朝鮮側死者405名・負傷903名。日本資料と比較して10倍以上も数字が異なりますので、当時の警備状況・犠牲者人数と併せて資料で示します。

「抗日」で大きなウエイトを占めている3・1運動も、日本に留学していた学生の「差別問題」から大きく民族運動にまで拡大したもので、共産主義運動の延長と、日本人と朝鮮人教師の賃金格差を問題とした「差別闘争」が端緒となったもので、独立の為の「抗日」では有りませんでした。
1919年(大正8年)3月1日、併合後10年の開化思想・民族独立・民族差別の混在した中、目覚めた学生主体の反日運動、天道教キリスト教関係者が9,900枚のビラ配布から始まり、警察署・郵便局の襲撃・市中示威・商店閉鎖で当時の大きなニュースとして海外でも報道されました。

大正デモクラシー」と言う時代背景もあり、日本国内でも最初のメーデーが、上野公園で開かれ、水平社運動・婦人参政権問題・労働運動等プロレタリア文芸の連盟が出来て、共産主義浸透に対しての「治安維持法」が作られた時代、自由と共産主義思想の渾然とした大正時代、そして混沌とした時代背景も有り、朝鮮に拡大したのが、3・1運動でも有ったと考えられます。

3・1運動時の朝鮮総督府の警備・対応・裁判の刑務局・裁判記録。

警備態勢 
*(朝鮮総督府朝鮮軍資料)
 1、交番および軍配備場所、1,624か所。
 2、軍隊、将校96名・下士官323名・兵2,525名・憲兵(私服含む)4,749名。
 3、警察、警視35名(朝鮮人警視11名)・警部227名(朝鮮人警部45名)・巡査2,321名(朝鮮人50%)・  巡査補3,019名(全員朝鮮人)。
 4、被害内訳は郡庁5箇所・面庁47か所・交番45か所・学校6校・郵便局11局・その他2か所。
*3・1運動に関わる逮捕者は全て裁判で裁かれています。

裁判では、判事・永島雄蔵氏が担当、死刑は0、主犯の8人が懲役3年、6人が2年6か月、有罪が37人、これは「内乱罪」と言うものでもなく、「保安法・出版法」で微罪として処理されているのです。
1920年(大正9年)以降は民族主義者の武装闘争は衰退の1途を辿りますので、この後40年までは、成長と安定感が朝鮮半島に有っ時代と言えるのではないでしょうか。

 *事件での日本軍の後処理の細かい資料に、発砲数まで記録されています。
当日の発砲数は、38銃226発・28拳銃28発使用弾まで記録されていますが、之では7,000人は殺せません。日本資料も「死者」総数の原因までの記載は有りません。

*3・1運動では、関与参加した外国人名、アメリキリスト教会、ウイリアム・I・ヘブン、シド二ー・L・グリック、宣教師エリー・M・モーリ、ラルフ・ラィナー、サムエル・A・モへット、A・W・ギリス、ロバート・M・マクマートリー、ラルフ・O・ライナー、べルマ・R・スノーク、アント・ギッチンス、ウイリアム・M・べアード等の名も有り、外国人宣教師等が煽動していたことも明らかにしています。
                                         〜3・1後の対応次回に

15・抗日運動

15・韓国教科書「青山里大捷」〜抗日独立戦争
 *(独立新聞及び日本間島領事館・朝鮮軍資料)
「韓国教科書」は〜「日帝は世界史でも、その類例を見いだせないほど徹底した悪辣な方法でわが民族を抑圧、収奪した。これによりわが民族は生存権まで脅威にさらされたが、これに屈せず独立への挙族的な抗日民族運動を展開した」〜と教科書は書きます。
抗日民族運動とは、韓国教科書で大きく扱われている「青山里大捷」の事ですが、内容を検証します。

朝鮮独立軍との交戦記録は、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)の交戦記録から、3,664回、出動兵力16,153名と「派遣朝鮮軍」が記載しています。この数字から見ると1回の交戦兵力は4,4名となり戦闘と呼べるのか疑問です。
「韓国教科書」でも「青山里大捷」を大きく、武装独立軍の「抗日独立戦争」と呼んでいます。
「独立新聞」も88号・90号・95号・98号に「セルトムンジの戦い」として、88号祇では、11月22日「セルトムンジ」で600名、90号では日本兵18名、95号では、11月21日に空前絶後の「奇戦」で司令官1名・大隊長2名・中隊長5名・小隊長9名・下士90名を撃破した。日々内容は一貫しませんが、戦果を誇る記事として存在します。
 *派遣朝鮮軍資料では、後の「間島」で「東北抗日ソ連軍」(ロ第二軍・第六師)に「金日成」の名前も見られますが、本物かは触れていませんが、グループは常時100人から300人の員数では有った様です。

 *(日本軍交戦記録・朝鮮軍・間島領事館資料)
日本の「間島領事館」・「朝鮮軍」資料では、10月19日・20日は異常なし。「独立新聞」が勝利を詠う、日本資料は、10月21日は磯林支隊が青山里戦闘で、部隊損害は戦死3名・負傷4名。
10月22日には、洪範図部隊と戦闘、敵は16遺体放棄、日本軍戦死1名。光復軍、李東朱他500名潜伏・警戒中と本格的な戦闘もなくゲリラ戦です。
 *韓国教科書の数字は「独立新聞」などの資料を元に、戦後の1976年に「朴慶植」が作成した「韓国独立運動之血書」の「日本軍2000名を撃破」の記事を採用し青山里大捷の基本に成っています。

「間島領事館資料」では、1920年(大正9年)11月には「帰順申告者名簿」に「軍政署」・「国民会」・「義軍団」・「軍政署士官学校」等兵士(名簿有り)600有余命が降伏、抵抗の終焉を迎えます。
朝鮮軍の砲兵中佐・西谷幸吉、歩兵少佐・本川省一・小沢憲兵特務曹長、外務省警部・板垣吉次氏等が「帰順式」に立会・挙行された事が、第11師団・参謀長、三輪秀一に報告されています。

朝鮮軍派遣部隊公式資料も、10月23日には、飯野少佐隊が戦闘、敵遺体30名、日本軍負傷5名で敵遁走せり、又日本軍は当地の一般住人から感謝されている。と報告されています。
1920年(大正9年)の間島には、洪範図・安武国民会・韓民会・義軍団・新民団・軍政署等、約合計2,450名ぐらいの馬続集団が有り近隣部落から、糧食の強奪・殺人を犯し、9月10日・12日には日本人・朝鮮人・ロシア人女子も含めて10人を惨殺、11月27日には、住民代表、黄鐘国・金昌権・供鐘華・柳仁春・西金七郎・伊東荒吉・佐伯政次郎連名で、朝鮮軍・大庭二郎大佐に保護請願書が出されております。

 *昨年新聞紙上で、陸上自衛隊の「大庭一佐」が部隊と共に、大阪「住吉神社」に初詣をされたと記事を見ましたが「大庭大佐」のご子孫?と興味を持って記事を見ていました。
「独立軍」と呼ばれる部隊の、金佐鎮・桂和・李範錫・李学根・洪範図部隊の行動状況は、その都度、朝鮮刑務局の山口課長には報告されているのは、監視対象として注意は払っていたのでしょう。「青山里大捷」も、独立新聞からの作文と言えるのではないでしょうか。     〜続きます

14・朝鮮人口の推移

14・李朝から日本時代の人口推移
 *(昭和国勢総覧)
人口の増減、21代「英祖」の時代の人口は730万人といわれています。100年後の大院君の1850年代は750万人、20万人の増加、1906年には980万人、1920年(大正9年)には1,868万人、1938年(昭和13年)には2,400万人、抑圧・収奪の中では、現状の北朝鮮同様に人口増は停滞しているでしょう。

韓国教科書が言う「日帝時代」の人口増加率を、アジア全体・世界・日本と比較して見ると「悪辣な収奪政策」を強いたにも関わらず、数字で見ると、当時の資料でアジア全体の人口増加率は0,84、世界は0,85、日本は1,24、台湾は1,85、朝鮮は2,09と比率では朝鮮が抜きんでています。収奪が激しいと言う中では有り得ない事なのです

安定した社会でなければ子供を産む気にもなれない。抑圧された中でも子供を作ることは大変な事で、現に北朝鮮は60年前からの人口増は止まり、韓国との大きな差が出てきています。

総督府は安定な環境作りを進め、「新渡戸稲造」が提唱した「植民地運営の最重要な事は衛生の改善」を第一の策として取り入れ、大韓帝国のソウルの医専・附属病院・公済病院・赤十字病院の三院を統合、大韓医院・慈恵医院、医師の養成と疫病防止には大きな力を注ぎ、1918年(大正7年)には、コレラ・ペスト・天然痘は撲滅されています。

新渡戸稲造が、台湾・朝鮮で仕事をして、台湾では評価され、朝鮮では評価される事が無いのは、「李朝」政権が有った国と、未開の台湾統治の間に差が有るのでしょう。
韓国が医療だけの功績を認めても恥ずかしい事ではないと思うのですが、ダメなようですね。
                                                   〜続きます