17・抗日「光復軍」とは?

17・韓国光復軍
 *(朝鮮総督府資料)
教科書は、「韓国光復軍は総司令官・池青天、支隊長・李範爽などを中心に、シナに駐屯していたアメリカ軍と連合し、国土の失地回復作戦の任務を担当する国内挺身隊を編成し、特殊訓練を実施し、飛行隊の編成を計画した。
太平洋戦争では、対日・対ドイツに宣戦布告をし、韓国光復軍は大陸では中国軍と協力、ミヤンマー(ビルマ)ではインド戦線に派遣、イギリス軍と連合作戦を行い日本軍と戦った。
光復軍は9月に実行しようと準備中だったが、国内侵入作戦は、日本の降伏で実現できずに降伏を迎えたのである」と教えています。

韓国光復軍とは間島・青山里で戦った、「洪範図部隊」その他の事を指すのでしょうが、それ以外では日本軍と朝鮮独立軍?が戦った記録は有りません。
1920年大正9年)以降には大きな朝鮮国内での反日運動も無く、特に日支事変後の朝鮮内では、日本軍への志願者が増え、多くの人が募集に応じています。

日支事変後の、1938年(昭和13年)以降は日本軍への志願兵募集では、408名の採用に、2,948名、1943年には5,300名の採用に303、294名の応募7・7倍から56,7倍の倍率と内務省資料が存在しており、戦場では既に日本の士官学校を卒業した「朝鮮人将校」が日本兵を指揮をしています。他の植民地(と呼ぶなら)、英・米・仏・蘭の統治地区では見られない現象です。

徴兵制も、1944年(昭和19年)に、当時の新聞では、「朝鮮の民意に応え徴兵制」と報道、台湾は1945年(昭和20年)からと伝えています。
徴兵制度で、1945年(昭和19年)には、陸・海で55,000名が訓練中に終戦を迎えていますので、この制度の中での朝鮮・台湾の戦死者は有りません。

日本「陸軍戦記」では、志願朝鮮兵部隊は、唯一第49師団「日本軍歩兵106連隊」(十時和彦連隊長)の、京城で編成された朝鮮人主力部隊分隊の「狼18702」が、1944年(昭和19年)に英・インド軍との交戦で、1,342名の戦死者を出し、兵士は「靖国神社」に祀られています。航空隊士官も参加され、特攻兵士として散華されています。
韓国光復軍」と言う存在は、日本軍交戦記録は残っていません。                    〜続きます