15・抗日運動

15・韓国教科書「青山里大捷」〜抗日独立戦争
 *(独立新聞及び日本間島領事館・朝鮮軍資料)
「韓国教科書」は〜「日帝は世界史でも、その類例を見いだせないほど徹底した悪辣な方法でわが民族を抑圧、収奪した。これによりわが民族は生存権まで脅威にさらされたが、これに屈せず独立への挙族的な抗日民族運動を展開した」〜と教科書は書きます。
抗日民族運動とは、韓国教科書で大きく扱われている「青山里大捷」の事ですが、内容を検証します。

朝鮮独立軍との交戦記録は、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)の交戦記録から、3,664回、出動兵力16,153名と「派遣朝鮮軍」が記載しています。この数字から見ると1回の交戦兵力は4,4名となり戦闘と呼べるのか疑問です。
「韓国教科書」でも「青山里大捷」を大きく、武装独立軍の「抗日独立戦争」と呼んでいます。
「独立新聞」も88号・90号・95号・98号に「セルトムンジの戦い」として、88号祇では、11月22日「セルトムンジ」で600名、90号では日本兵18名、95号では、11月21日に空前絶後の「奇戦」で司令官1名・大隊長2名・中隊長5名・小隊長9名・下士90名を撃破した。日々内容は一貫しませんが、戦果を誇る記事として存在します。
 *派遣朝鮮軍資料では、後の「間島」で「東北抗日ソ連軍」(ロ第二軍・第六師)に「金日成」の名前も見られますが、本物かは触れていませんが、グループは常時100人から300人の員数では有った様です。

 *(日本軍交戦記録・朝鮮軍・間島領事館資料)
日本の「間島領事館」・「朝鮮軍」資料では、10月19日・20日は異常なし。「独立新聞」が勝利を詠う、日本資料は、10月21日は磯林支隊が青山里戦闘で、部隊損害は戦死3名・負傷4名。
10月22日には、洪範図部隊と戦闘、敵は16遺体放棄、日本軍戦死1名。光復軍、李東朱他500名潜伏・警戒中と本格的な戦闘もなくゲリラ戦です。
 *韓国教科書の数字は「独立新聞」などの資料を元に、戦後の1976年に「朴慶植」が作成した「韓国独立運動之血書」の「日本軍2000名を撃破」の記事を採用し青山里大捷の基本に成っています。

「間島領事館資料」では、1920年(大正9年)11月には「帰順申告者名簿」に「軍政署」・「国民会」・「義軍団」・「軍政署士官学校」等兵士(名簿有り)600有余命が降伏、抵抗の終焉を迎えます。
朝鮮軍の砲兵中佐・西谷幸吉、歩兵少佐・本川省一・小沢憲兵特務曹長、外務省警部・板垣吉次氏等が「帰順式」に立会・挙行された事が、第11師団・参謀長、三輪秀一に報告されています。

朝鮮軍派遣部隊公式資料も、10月23日には、飯野少佐隊が戦闘、敵遺体30名、日本軍負傷5名で敵遁走せり、又日本軍は当地の一般住人から感謝されている。と報告されています。
1920年(大正9年)の間島には、洪範図・安武国民会・韓民会・義軍団・新民団・軍政署等、約合計2,450名ぐらいの馬続集団が有り近隣部落から、糧食の強奪・殺人を犯し、9月10日・12日には日本人・朝鮮人・ロシア人女子も含めて10人を惨殺、11月27日には、住民代表、黄鐘国・金昌権・供鐘華・柳仁春・西金七郎・伊東荒吉・佐伯政次郎連名で、朝鮮軍・大庭二郎大佐に保護請願書が出されております。

 *昨年新聞紙上で、陸上自衛隊の「大庭一佐」が部隊と共に、大阪「住吉神社」に初詣をされたと記事を見ましたが「大庭大佐」のご子孫?と興味を持って記事を見ていました。
「独立軍」と呼ばれる部隊の、金佐鎮・桂和・李範錫・李学根・洪範図部隊の行動状況は、その都度、朝鮮刑務局の山口課長には報告されているのは、監視対象として注意は払っていたのでしょう。「青山里大捷」も、独立新聞からの作文と言えるのではないでしょうか。     〜続きます