16・3・1抗日運動(1)

16・3・1独立運動(1)・(2)

3・1運動を始め、韓国教科書の「抗日抵抗」の記述が酷くなるのは、「青山里大捷」同様、1976年(昭和51年)朴慶植」著作による「朝鮮3・1独立運動」の根拠のない記事からです。

「韓国教科書」は〜「3・1独立運動で、死者7,509名・負傷15,961名、日本軍は2大隊二万名の憲兵を動員弾圧」と教科書では教えています、これも「朴慶植」からの数字です。
日本資料は、朝鮮総督府・「警務部」の公式資料で、日本人・朝鮮人の死者・負傷者として、日本軍人死者2名・負傷33名、朝鮮側死者405名・負傷903名。日本資料と比較して10倍以上も数字が異なりますので、当時の警備状況・犠牲者人数と併せて資料で示します。

「抗日」で大きなウエイトを占めている3・1運動も、日本に留学していた学生の「差別問題」から大きく民族運動にまで拡大したもので、共産主義運動の延長と、日本人と朝鮮人教師の賃金格差を問題とした「差別闘争」が端緒となったもので、独立の為の「抗日」では有りませんでした。
1919年(大正8年)3月1日、併合後10年の開化思想・民族独立・民族差別の混在した中、目覚めた学生主体の反日運動、天道教キリスト教関係者が9,900枚のビラ配布から始まり、警察署・郵便局の襲撃・市中示威・商店閉鎖で当時の大きなニュースとして海外でも報道されました。

大正デモクラシー」と言う時代背景もあり、日本国内でも最初のメーデーが、上野公園で開かれ、水平社運動・婦人参政権問題・労働運動等プロレタリア文芸の連盟が出来て、共産主義浸透に対しての「治安維持法」が作られた時代、自由と共産主義思想の渾然とした大正時代、そして混沌とした時代背景も有り、朝鮮に拡大したのが、3・1運動でも有ったと考えられます。

3・1運動時の朝鮮総督府の警備・対応・裁判の刑務局・裁判記録。

警備態勢 
*(朝鮮総督府朝鮮軍資料)
 1、交番および軍配備場所、1,624か所。
 2、軍隊、将校96名・下士官323名・兵2,525名・憲兵(私服含む)4,749名。
 3、警察、警視35名(朝鮮人警視11名)・警部227名(朝鮮人警部45名)・巡査2,321名(朝鮮人50%)・  巡査補3,019名(全員朝鮮人)。
 4、被害内訳は郡庁5箇所・面庁47か所・交番45か所・学校6校・郵便局11局・その他2か所。
*3・1運動に関わる逮捕者は全て裁判で裁かれています。

裁判では、判事・永島雄蔵氏が担当、死刑は0、主犯の8人が懲役3年、6人が2年6か月、有罪が37人、これは「内乱罪」と言うものでもなく、「保安法・出版法」で微罪として処理されているのです。
1920年(大正9年)以降は民族主義者の武装闘争は衰退の1途を辿りますので、この後40年までは、成長と安定感が朝鮮半島に有っ時代と言えるのではないでしょうか。

 *事件での日本軍の後処理の細かい資料に、発砲数まで記録されています。
当日の発砲数は、38銃226発・28拳銃28発使用弾まで記録されていますが、之では7,000人は殺せません。日本資料も「死者」総数の原因までの記載は有りません。

*3・1運動では、関与参加した外国人名、アメリキリスト教会、ウイリアム・I・ヘブン、シド二ー・L・グリック、宣教師エリー・M・モーリ、ラルフ・ラィナー、サムエル・A・モへット、A・W・ギリス、ロバート・M・マクマートリー、ラルフ・O・ライナー、べルマ・R・スノーク、アント・ギッチンス、ウイリアム・M・べアード等の名も有り、外国人宣教師等が煽動していたことも明らかにしています。
                                         〜3・1後の対応次回に