「特別版」・今日の(1・20日読売新聞記事)より

読売新聞「顔」欄より、「金時鐘」さん(詩人)
「異形の日本語で詩を紡ぎ、60年余になる。在日韓国人として初めてとなる受賞の報に”これまで詩壇の「圏外」にいたのに取りこまれるような思い”にとらわれ、数日間悩んだ。
植民地下の済州島で日本語を国語に育ち。北原白秋等の作品に夢中に成った。だが、終戦と同時に「意思と関わりなく」、国籍の変更を強いられた経験が、後に「自己の回復」と言う創作上の主題につながっていく。
1949年に来日後、小野十三郎に影響を受け。「日本語で作られた自分自身への報復」として試作を始めた。近代詩的な抒情にあらがい、観念的な現代詩とも距離を置いた。
受賞作「亡くした季節」でも冒頭から「自然は安らぐと云ったきみの言葉は改めなくてはならない。」とつずるなど、安易な自然賛美に懐疑の言葉を投げかける。
「日本ではずっと、自然は眺めるものでした。でも、現実には人間がそこに生きている。美しい雪景色も、豪雪地帯の人にはどんなに難儀か」。
作品を貫く批判精神は、実は優しさに裏打ちされている。
            大阪文化・生活部 **記者。  

1949年大阪に住んでいた私には、記事の矛盾と氏の被害者ぶり、優しさの演出ぶり「満載」の歴史記事に、記者の歴史音痴に驚くと同時に、今後もこの様な記事を、大新聞が発刊し続けるのだろうと考えると、一言言いたくなり、当時を振り返り「在日」のいかがわしさを知って置いて欲しい。と書いてみました。

1949年まで済州島にいた。李承晩大統領の反日・反共政策で、49年の済州島は虐殺済州島事件の最中、日本に逃亡密入国、特に「鶴橋」は併合時代に済州島から自由渡航後、此処で生計を立てていた人が100%、関東大震災では「寄付」、戦時には軍に「飛行機」まで献納、日本に非常に溶け込み自由に生活をされて居ました。

この人も済州島事件で日本に来たので、李承晩の「在日は朝鮮人」国籍は朝鮮にある。と言う事が有っても関係なく現実には済州島に1949年まで滞在して居る訳で現実の問題としても、当時の在住の「在日」より意識は無く、後日の言いわけに過ぎないと思います。

「自己の回復」には、1949年(韓国の独立)に自国を放棄、朝鮮戦争からも逃避した。こんな事も隠された氏の歴史にあるのではないでしょうか?
「作品の批判精神は、実は優しさに裏打ちされている。」と読売の記者は批評で書いています。

私の意見は非常に数少ないでしょうが、この人の願望は、李政権の済州島を逃げ出し、当時の日本社会での「第三国人生活」を満喫した古い在日社会と、新しい在日社会を、いつまでも抑圧された在日を維持して居たい。これに読売新聞記者が同乗(同情)した様な「顔」の文章、戦後の「鶴橋」を知る人間として複雑な気持ちで読んでいました。記事を残しておきたいと記載しました。