12・(3)治山・治水

(3)・治山・治水・農工業政策
* (総督府資料)
911年(明治44年)には、山林令・緑化計画が出され、1915年(大正4年)には鉄道・橋梁、「五万分の一」の朝鮮地図完成に伴う、治山・治水事業、1916年(大正5年)には、民事・刑事令、1917年(大正6年)には、道路計画10カ年計画、これらは1910年代に計画され、1940年代(昭和15年)に完成して居ます。

治山・治水事業と同時に、造林60,662万本、植林59,000万本が山林令で実施され、火田民の減少で木の焼却もなく、1930年(昭和5年)には、当時のアジアでは、日本に次いで環境・交通網の発展したのが朝鮮といわれるように成っているのです。
港湾についても、釜山・仁川・平壌・元山・義州・群山・木蒲・馬山・城津の着工をはじめ、300以上の港湾設備が朝鮮総督府によって作られでいます。

電力もダムの開発で、近代社会への飛躍度が他のアジア諸国と比べると格段の差が出来ました。
電燈の数も1912年(大正元年)の朝鮮は27,525ヶ、1915年は95,315ヶ、1925年は234,654ヶ、1930年は1,293,823ヶ、1935年(昭和10年)には2,063,084ヶと一目瞭然です。

たかが電燈と言われても増加しているのが判ります。1936年(昭和11年)には当時は世界一の「水豊ダム」70万KWが完成、現在でも北朝鮮民共和国で使われています。
朝鮮の産業構造の進展状況・輸出状況も比較をしてみると、朝鮮総督府の収奪政策が、どの部分を「収奪」と呼ぶのか?示すべきですね。

教科書では鉱山・炭鉱の開発をも、「収奪」と表しています。「満州」が造られてからは、満州からの資材・工業生産が朝鮮財政の補助に使われています、朝鮮の橋梁も「満州国」からの予算から出されているのです。

1910年(明治43年)から、1940年(昭和15年)までの、農・工・鉱の比率は、農は15万トンから33万トン、工は0から497万トン、鉱は0から85万トンと輸出が増加、それぞれ22倍・497倍・85倍、産業構造も1910年と1940年の比較では輸出が30から582、19倍の増加、年間成長率は平均4%を平均して維持して居たのです。
*1920年から1940年の統計は、数字が有りますので明日記事とします。              〜続きます