日本の開国と朝鮮

7・日本の開国と朝鮮

日本も、1853年(寛永6年)のぺリーの来航以来「近代国家」を目指して「不平等条約」を飲み近代化への、第一歩を踏み出すことになり、1869年(明治2年)には版籍奉還後、国家としての基本の、租税国家の成立・徴兵制度・地租改革で「富国強兵」を、標語とし大きな犠牲を払い西欧に追いつく努力をしています。

当時の日本の国家財政は歳入,9,669万円中「地租59,2%」・「酒税23,1%」・「海関税6,6%」・「官業7、5%」と言う「歪」なもので、「国家」としてスタートを切りましたが、当時の世界の列強国から見れば貧しいものです。

開国は265年続いた武家政治・封建制度を過去のものとし、一種「革命」とも言えるものですが、国家の「独立」を目的とし、又外敵から国を守ると云う、大きな「政治革命」だと見ています。
之を見ると、戦後65年の日本が進駐軍憲法に拘り、未だに「独立」の意思が見えない状況は、議事堂内の、初代首相「伊藤博文」の銅像も涙されているのではないでしょうか?。
日本開国では多くを語りませんが、明治維新は世界に例を見ないものと理解すべきです。
                                               
日本と清の間に有って、当時の李朝が「独立国家」への移行の意思が有れば、現在の日韓関係も違ったものに成っていたと思われます。
日本は朝鮮を独立国家として「国家同士」の関係を望み、1868年(明治2年)・1872年(明治5年)と二回にわたる申し入れに対して、「国書受取拒否」をします。
明治政府を認めないと言う態度で接しますが、拒否理由は「皇」と「勅」の文字は、「清国」皇帝のみが使用できる文字である。とする朝鮮国の言い分でした。

1876年(明治9年)に「日朝修好条約」を締結後も「袁世凱」は朝鮮の監国として君臨、国内では1882年(明治14年)京城での排日暴動、1884年(明治27年)には、朝鮮はロシアと修好通商条約を結びましたが、この中で李朝悪政に反抗する農民運動が1894年(明治27年)から「東学党」の反乱に繋がります。
日本・清国が「東学党」対策に、朝鮮王の申し入れにより出兵したのが始まりとなり、朝鮮の独立をかけた日本と、属国を主張する清との間で「日清戦争」が起こります。
黄海海戦」・「旅順口攻略」でも日本が勝利を得た結果、朝鮮の「独立」が達成され、1897年(明治30年)には朝鮮は、之を機に「李朝」500年の属国から解かれ国名を「大韓帝国」と改めることが出来たのです。

金玉均」等が、開化党政府を日本の協力で樹立し「朝鮮独立」を図りますが、上海で暗殺をされ、本国に運ばれた上、遺体をバラバラにされ、家族も連座制で全てが殺された事で、「独立派」の希望は途絶えます。之が事大党と独立派の闘争です。
独立派「金玉均」等が独立を目指した、「甲申政変の14カ条政綱」を見ると「反日」もなく、朝鮮総督府及び目賀田種太郎が後日実施した改革同様、正常な「議会制民主主義」を目指したもので有る事が判ります。

 *14カ条とは

1条〜「朝貢の礼を無くす」・2条〜「人民平等、能力主義」・3条〜「国家財政の確立」・4条〜「優秀な人材登用」・5条〜「不正防止)・6条〜「還上米を受け取らない」・7条〜「李章閣廃止」・8条〜「巡査を置き盗賊防止)・9条〜「恵商公局廃止」・10条〜「流罪の参酌)・11条〜「近衛兵の設置」・12条〜「財政の統括」・13条〜「議政府で政令を出す」・14条〜「不要な機関の廃止」。
                                                 〜続きます