日本の戦争と朝鮮の対応

8・近代日本と日清戦争

李朝は独立後も、「衛正斥邪思想」「事大主義」が強く、日本が1876年(明治9年)の「日朝修好条約」での「朝鮮国は自主独立の国」に対して、清国は「朝中水陸貿易章程」で「朝鮮は久しく、封に列す」と、日本の「独立論」に対して「属邦論」で対立の中、「東学農民が全州占領」の事態を受けて日・清が出兵、前記の日本と清国の「独立」「属国」論の異見が、日清戦争を呼び日本は1894年(明治28年)2月、日清戦争に進んでいくのです。

1894年6月6日に清国出兵通告、7月23日日本軍が王宮占領し、7月25日豊島沖でも清国艦隊と交戦、8月1日清国には宣戦布告、8月25日「日朝両国盟約」、9月17日「黄海海戦」、11月21日「旅順陥落」、1895年4月17日「下関条約」をもって「日清戦争」の終焉を迎え、朝鮮は日本の「朝鮮独立」の後押しを受けて、1897年(明治30年)「李氏朝鮮」は「大韓帝国」として独立します。

日清戦争の意義も、朝鮮の独立の内容も、日本では教育で教えられることも有りません。

韓国教科書は、「日帝は清の勢力を追い出した後、朝鮮に対する内政干渉を通して経済的利権を収奪すると共に、侵略の基礎を固める事で有った」と教えていますが、既に朝鮮は資源・林業はロ・米・英・仏・独の諸国で分割され開発・侵略を受けていた事も教科書には有りません。

戦勝後の日本の借地に関し、日本が三国干渉に屈したのを見た大漢帝国が「親露侮日」に舵をきり、ロシアが朝鮮半島に浸透、シナに対する圧力を加えて、1898年(明治31年)には列強8カ国が、シナ分割支配したことが、1901年(明治34年)の「義和団事件」を呼び「義和団」が北京を占拠し外国公館を襲います。

8カ国(英・米・露・仏・独・伊・オランダ・日)の軍隊が出て北京公使館区域救出を、日本軍が主体で救出しました。その直後ロシアが満州を占領、ロシアの進出に危機を感じた日・英が、1902年(明治35年)に「日英同盟」を締結し、ロシアに満州還付協約を迫りましたが「不履行」。
ロシアは日本に対し、朝鮮分割論提議をしますが、日本は拒否、後の「日露戦争」にまで進んでしまうのです。この中でも、大韓帝国は「中立宣言」をする有り様で、自国内で起こっていることにも関わらず、現在の日本と同じ様な鈍感極まりない対応をしたのです。

日英同盟」が勝利に寄与した事も明白です。軍事力はロシアと比べて二分の一、ロシアの朝鮮半島に対する圧力を放置しておけば、日本国家の存亡にも関わると判断し、開戦を躊躇しない当時の為政者・兵士の勇気には感謝しなければいけません。
有色人種が白人国家に挑戦した意味も、中国革命の父と言われる「孫文」が、日本の勝利を「日本がロシアに勝った結果、アジア民族の独立に対する大いなる希望を抱くことに成った」と言わしめています。

その孫文を、現在では「中共」が評価し始めていますが、当時の孫文に対する日本・日本人の協力には一切触れようとはしません、身勝手なものです。
アジアは云うに及ばず、世界の有色人種の希望に日本人は先鞭をつけた。と考えても良いのではないでしょうか?之すら日本の侵略の第一歩だ。と云う日本人も居ることに怒りを覚えると同時に現状の日本は、朝鮮併合時「外信記者」が「朝鮮人の敵は朝鮮人」と書いた様に、現在の日本人は、「日本人の敵は日本人」、李朝朝鮮を反面教師とする必要が有ります。

1907年(明治40年)「ノース・ラリット」の記事も、「日本は朝鮮の為、2度の戦筝を戦った」と記事にしています。当時の朝鮮が「独立」の意気に燃え、日本と共同の歩調をとる自体に成っていれば、日清・日露戦筝を日本は戦わなくても良かったと考えます。
大韓が、ハーグ国際平和会議に密使を送り、日本の「侵略」として非難するのですが、之が発覚し皇帝が退位・軍隊も解体され、日本の「統監部」が設立されます。
「統監部」時代は、日本も朝鮮も自主権は大韓帝国に有ると両国共考えていたので、「日帝36年」に「統監部」時代が含まれていないのです。この期間の努力次第では「朝鮮」は独立できた時期と考える事も出来たのです。
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