日本近世への胎動

6・ 日本近世社会えの胎動と朝鮮通信使
世界史でも18世紀末までは、殆ど国家と呼べるものもなく、多くは「君主」の国であり、国は君主の権利・財産でした。中国では女真族「清国」、朝鮮では20代景宗、日本では徳川幕府、吉宗の時代迄は西欧の歴史とも無縁、日本は権力の中心は徳川幕府が維持してました。
地方藩はそれぞれの特徴を生かした上、徳川幕府管理の元、藩の運営を任されているのですが、
権威として朝廷が有る日本と清・李朝の様に一政権で歴史が断絶するのとは大きな違いでしょう。

鎖国をしていながら西欧の「封建制度」と同じ様な、独自の「論理」・「道徳」・「思想」観が生まれたのも、各藩による独特の教育制度が有ったのと、統一国家としての歴史が連続して居るのは「幕府」のバックに有る皇室の存在に有る事が、アジア他国と大きく異なったと考えています。
江戸時代の日本は鎖国で、中国・朝鮮には生まれなかった「歌舞伎」「能」「大衆町人文化」と合わせて、独特の文化の醸成・成熟に伴い、各藩独自の政治は行われ国家として見ていけば、安定した時代と同時に、経済からも、250年の武家政治の限界を迎えることに成ります。

李朝朝鮮」は元・明・清と大陸の政権が変わるたび、地理的な状況から見ても独自の文化・文明を生むことなく大陸政権が、唯一の交流窓口の為、大陸政権が変わるたび影響を受けます。
大陸の科挙制度と両班の政治の中で「李朝」は、チョン・ヤギョンの「牧民心書」に見られるような、大きな政治的な格差を作り、まさに「春窮、麦嶺超え難し」、人口の9割を占める農民の8割の小作人が、慢性的な食糧難にあえいでいる李朝の姿を知る事も大事です。

比較すると、豊臣秀吉の日本統一が近代日本の「第一歩?」とも言えます。秀吉の太閤検地地・度量衡の統一・兵農分離・人口調査と国内の体制を固め、封建制度の基本を作りだした半面、国内統一と同時に、領土拡大?明貿易を目指して2回の「朝鮮出兵」と、ポルトガル・スペインの東洋版とでも言っても間違いないでしょう。

秀吉の死後、徳川幕府が始まり1607年(慶長12年)「朝鮮通信使」が初めて江戸に入ります。
1627年(寛永6年)後金が「清」と名を改めて、朝鮮を「属国」化しますが、「韓国教科書」では徳川幕府が「朝鮮」の「先進文化」を受け入れるため許可を求めたと記されています。日本は既に1600年代からオランダとの通商は始まっているので、そうとばかりは言えません。
1711年(正徳1年)には朝鮮使節団を江戸まで入れていたのを、大きな意味を持たない使節になり、この年から対島で通信使を受け入れ経費の節減を図る「程度」まで重要視されないものに成って行きます。

当初は秀吉の朝鮮出兵で、連れてこられた捕虜の返還も含めての話し合いで有ったのですが、連行された人の多くは帰国を拒み残る人が多い為、その後は儒学者たちの交流だけで、学者の間も得ることがない上、経費もかかる事で対島での対応に成ったものです。
朝鮮通信使を見る日本人は風俗が珍しく、沿道で見守る庶民には「幕府」への、外国の「参勤交代」の様な感じで見ていたのではと、残る絵画から想像が出来ます。
朝鮮通信使自身も、朝鮮にもない大坂城名古屋城江戸城の大きさと、街の大きさ道路の完備に驚いている資料も残されています。又朝鮮通信使が掲げる「旗」には「清道」と言う文字も見えますが、「清への道?」とは何を意味するのか考えてみるのも面白いでしょう。

「清道」とは「朝鮮通信使」の役目の裏には、日本を見守るために「清」の情報収集の機能も果たしていましたので、今風には清国のスパイ「倭情」視察団、日本への贈答品も許可が必要でした。
日本から帰国すると「明」時代から、大陸の使者を迎える迎恩門に見られるように、「清」に朝貢をする朝鮮国王は、李朝国内の出来事の全てを報告する義務も負わされていました。
李朝は元々、李成柱(明の将軍と言われています)が、高麗王朝から政権を餐奪した後、「明」の皇帝から下賜された「朝鮮国号」を選び大韓帝国まで500年は「朝鮮」が、使われ続けていたものです。

李朝」時代も、「清帝国」内には「礼部」と呼ばれる機構があり、その「礼部」が「李朝」を全面管理。「甲申事変」後でも李鴻章の部下で日本では知られている「袁世凱」が支配しており、朝鮮王国の代理・監国で有った事実を韓国学者は目を瞑り見ようとはしません。      〜続きます