5・李氏朝鮮の誕生

5・朝鮮半島の対倭侵攻と李朝誕生

中世から、近世の当初まで朝鮮半島との交流は、秀吉の「朝鮮遠征」や、大陸・半島連合の対島・壱岐・九州襲撃と「友好」などとは程遠いもので省きます。
世界史年表から見ると、936年(承平時代)高麗王朝が朝鮮統一します。994年(天延2年)高麗は「宗」に服従997年(長徳3年)対島に侵入、1259年高麗は「元」に服従後1274年(文永11年)元軍と共に壱岐・対島を襲撃、1281年(弘安4年)にも、元軍と共に再度九州・対島を襲います。
1361年には紅巾(明)に服属後の1389年(元中時代)にも対島を襲撃している。
大陸政権が変わり10年から30年後、必ず九州・対島に攻め込んで来ているのですが、日本の歴史では教えらません。

1392年(明徳2年)李成柱が高麗を滅ぼし「李氏朝鮮」を建国する事に成ります。1419年(応永26年)にも明・朝鮮兵が対島を又襲います(応永の外冠)です。これらの歴史を見ていくと豊臣秀吉が「明」を目指して1592年(文禄元年)、1597年(慶長2年)に朝鮮出兵をした意味も、最終目的が「朝鮮」でなく大陸政権の攻略に有ったのでないかと考えさせられます。

李朝」は1392年から、日本では(元中・南朝8年)(明徳2年・北朝)が南北朝統一(明徳3年)された年から1897年(明治30年)までの約500年間、「元」・「明」・「清」・の間で朝鮮は習慣・服装・歴史迄が大陸政権の変化に振り回される事に成っていきます。
陸続きの朝鮮は、地勢上致し方がないとしても海を隔てた日本の幸いで有った事は否めません。

「王朝実録」には李王朝が出来てからの、1419年(応永26年)の朝鮮兵の「対島」襲撃(応永の外冠)・1446年(朝鮮で諺文)公布・1474年(文明6年)幕府が明貿易にからみ朝鮮に遣使・1494年((明応3年)朝鮮で儒学者弾圧・1607年(慶長12年)朝鮮国使節、来朝・1609年(慶長14年)日本、朝鮮講和条約(己酉条約)・1627年(寛永4年)後金軍の朝鮮侵入。

1636年(寛永13年)後金、国号を「清」と改め、朝鮮は清に服属・1653年(承応2年)朝鮮、西欧歴採用・1711年(正徳1年)徳川幕府朝鮮通信使待遇改め対島で対応したことなどを含めて、
1801年(享和1年)朝鮮でキリスト教弾圧・1811年(文化8年)朝鮮平安道で農民反乱・1860年(万延1年)朝鮮、東学党の乱始まる・1864年(元冶1年)朝鮮、大院君が政権掌握・1882年(明治15年)京城日本大使館襲撃、事大党、独立派抗争激化とこれらは記載されているでしょうか?「王朝実録」を見た事が有りませんので興味が有ります。

日本も、1484年(文明16年)足利幕府が一時期「遣明使」を送っ頃に「東国通鑑」(成宗)が作られますが、朝鮮の様に大陸の政権が交代するたびに、風俗習慣まで変わり「独自」のモノが作れない環境ではなかったのは幸いでした。
歴史の断絶の為、古代文書が無く「高句麗好太王碑銘」・「宋書倭国伝」・「古事記」(712年・和銅5年)「日本書紀」(720年・養老4年)を適当に「アレンジ」して作れる朝鮮古代史・中世史の朝鮮の歴史は、反面「云い放題」前記で申したように適当に作れるので、便利と言えば便利です。    
                                               〜続きます