3・伽那連盟王国

3、伽那連盟王国(韓国教科書より)

「韓国教科書」は、この「任那日本府」説について、韓半島(?)内で高句麗百済の間の勢力争いが熾烈にになると、高句麗の軍隊が洛東江流域まで進出するに至り、こうした渦中で「伽那連盟王国」内に含まれ,その勢力が弱体化したと、百済が「連盟王国」の一つの様に描かれます。
教科書に出現する「伽那連盟王国」?の中に百済の「任那日本府」が有った事は、口が裂けても云えないので、20世の新説「伽那連盟王国」を造らざるを得なく成ったものです。
百済の資料が無い為、「王仁」・「雲微」・「法隆寺」・「大和政権」も「日本書紀」からの借りものです。
従い韓国南部の伽那地域で20世紀に「前方後円墳」が発見された時も、日本の学者を立ち入りを拒否されています。
任那日本府」の存在が事実と成れば、韓国の戦後教育・古代歴史観が全て否定される事に成ると同時に、日本に対する古代優越感も無に成ってしまう恐怖が有るのでしょう。

*663年「白村江」迄の日本の大陸・朝鮮半島外交を年号から見てみます。(日本大辞典より)

57年・「倭奴国王」後漢に入貢。光武帝より印綬を受ける。

107年・「倭国王」師升ら、後漢の安帝に生口(奴隷)160人を献上。
150年・「倭国」乱れている。満州北朝鮮高句麗後漢より独立。

239年・「邪馬台国女王卑弥呼帯方郡に遣使。魏の明帝卑弥呼親魏倭王となす、金印授与。
240年・帯方郡太守、倭国に遣使、魏王の勅書・印綬をもたらす。
243年・卑弥呼、狗奴国との交戦を帯方郡に報告。
266年・「邪馬台国女王台与」、西晋に使者を派遣。

350年・大和朝廷、東北地方を除く日本の大部分を統一。
367年・「百済」始めて日本に遣使。
369年・「倭」の大軍、百済と結び新羅を破る、この時期「任那日本府成立」。
391年・「倭軍」朝鮮に出兵。百済新羅を破り臣民と為す。
      同年・高句麗の広開土王(好太王)即位。

400年・「高句麗」、新羅を救援して、倭を退け、追撃して任那加羅に至る。
404年・「倭軍」、帯方郡高句麗と戦い敗戦。
413年・「倭王讃」(仁徳天皇東晋に遣使。
421年・「宋」武帝、「倭王」讃に称号を授与。
427年・高句麗平壌に遷都。
438年・「倭王済」(光恭天皇)、宋に遣使。安東将軍倭国王となる。
462年・「倭王世子興」(安康天皇)、宋に遣使。孝武帝、興を安東将軍倭国王となす。
478年・「倭王武」(雄略天皇)、宋に遣使。順帝、武を安東大将軍倭王となす。

512年・任那4県を「百済」に割譲(日本では大伴金村失脚)。
538年・「百済」の「聖明王」、仏像・経典を献ず。(仏教伝来)。
562年・「任那日本府新羅に滅ぼされる。
581年・文帝、北周を滅ぼし「隋」建国。
587年・仏教の採否をめぐり騒乱、蘇我氏物部氏を滅ぼす。
593年・「聖徳太子」、摂政となる。四天王寺の建立。

604年・「聖徳太子」十七条憲法を制定。
607年・小野妹子「遣隋使」として派遣される。
608年・隋使「斐世清」、小野妹子とと来朝。
618年・隋滅亡。
620年・「聖徳太子」最古の史書天皇記」・「国記」を編纂。
630年・犬上御田鋤らを「唐」に派遣(遣唐使)。
645年・「年号の制定」「大化」と「大化改新の詔」公地公民制等制定。
663年・唐・新羅連合軍、「百済」を滅ぼす。
668年・唐・新羅連合軍、「高句麗」を滅ぼす。
676年・唐、朝鮮放棄、新羅朝鮮統一。

663年の「白村江」に至ります、「白村江」も日本からの救援も語られる事はありません。
「唐」の力を借りての「統一新羅」が、朝鮮独立の「芽」を摘んだ始まりではないかと、個人的には考えています。歴史学者でも、地勢学者でも有りませんので、本能的に感じるとでも申して置きます。
文化面でも韓国教科書では「百済」が漢字・文字を日本に伝えたと教えていますが、既に大陸政権とは「倭」の時代の日本は100年代・200年代と、大陸と交流が有り「漢字」を理解しているのは明らかです。〜続きます