2、日本の「倭の時代」

2・日本の「倭の時代」(詳説・日本史史料より)

従い、倭を検証する文書は「漢書地理史」「後漢書東夷伝」「三国志魏志倭人伝」「高句麗好太王碑銘」「宋書倭国伝」のみ,「天皇記」「国記」「古事記」「日本書紀」まで待たなければなりません。
漢書地理志」では日本(倭)は「夫れ楽浪海中に有り、分かれて百余国と為る。歳時を似て来りて献見すと言う」光武帝より印綬されたと記載されています。
*「後漢書東夷伝」では「建武中元二年、倭の奴国奉献朝す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武帝賜うるに印綬を似ってす」。

安帝の永初元年、「倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う。恒・霊の間、倭国多いに乱れ、こもごも相攻し、暦年主無し」。日本の古代を表し一世紀後半に記されたものとされています。

三国志魏志倭人伝」「高句麗好太王碑銘」「宋書倭国伝」の「倭王」を「日本書紀」から当てはめると、倭王「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」がそれぞれ「応神」・「仁徳」・「九恭」・「安康」・「雄略」天皇の時代の事で有ろうと推定されます。

百済」崩壊以前にも、百済から日本に367年遺使されており、「宋書」では倭の大軍が、百済と結び新羅を破り、半島内に「任那日本府」設立成るのですが、現在の日本・韓国の教科書からは完全に消えています。
百済」崩壊前の645年には日本独自の年号「大化」の誕生、「百済」の流移民が「大和政権」を作った。と言う韓国教科書の説には無理が有ります。

日本の歴史では「大化の改新」迄に、前記の512年「任那四県を百済に割譲」、603年、聖徳太子「冠位12階の制定」、620年、聖徳太子天皇記」「国記」の編纂を見ても、日本独自のものであった事も現在の日本史の中では教えられることは有りません。
此処まででも「日本書紀」や中国の資料がなければ、朝鮮の「百済史」は、朝鮮だけの歴史書で「百済」を語ることは無理です。
従い、現在の教科書、朝鮮古代史は「日本書紀」「の裏返しであり「漢書地理史」「後漢書東夷伝」等、多くの中国資料も無視しており、韓国独自の思い込みだけの教科書、反面に何とでも作れる。と云う事でも有ります。ハングル資料だけで判断してはいけません。 〜 続きます