「日本と朝鮮の歴史検証」

1・古代・中世の日朝関係

日韓併合100年に際して「韓国教科書」より見た韓国「中・近代史」の表記に違和感を覚えたので日本資料から見た韓国教科書を検証してみました。

百済とは?朝鮮半島で「高句麗」「百済」「新羅」時代の3国の一つ「三国史記」ではBC.18~660年迄有った朝鮮南部の国、「高句麗好太王碑銘」では「百残・新羅は旧これを属民にして、由来朝貢す」。と有り、日本の植民地が通説です。(391年〜404年)で年代でずれは有っても、「日本書紀」の三韓征伐・任那日本府の記事とも合致します。

512年「任那四県を百済に割譲」(日本では教えられていません)。538年百済聖明王、仏像・経典を献ず(仏教伝来)、562年任那日本府新羅」に滅ぼされる(日本では教えられていない)。古代・中世・近世は紀元前の漢の武帝衛氏朝鮮を征服の時に「漢書地理志」・「後漢書東夷伝
・「三国志魏志倭人伝」・「宋書倭国伝」そして、712年(和銅5年)の「古事記」、720年(養老4年)の「日本書紀」、604年に「憲法十七条」が作られ、607年には小野妹子が「遣隋使」として派遣され、隋からは位は低いが「文林郎」が来日している。又608年には隋使「斐世清」も来日。
608年にも高向玄理・僧愛・南淵請安等が妹子と再度隋に派遣されているので、百済だけが大陸文化の取り入れ口でもないのです。

韓国教科書が言う、「法隆寺」「王仁」「雲微」も「日本書紀」からの借り物であり,朝鮮資料には「百済」を示すものは現存せず、発見された、任那日本府の存在を示す「前方後円墳」も埋め戻し、王仁誕生地・高天原を作り、新しい歴史つくりに奔走、日本では白村江で敗退した百済亡命人が命名したのか?後の日本人が命名したのか、百済地名・寺名・神社名が方々に残っています。
20世紀に入り「在日韓国民団」が戦前の日朝同祖論者が、日朝共同で作った記念碑の前に「百済門」を作ったり、高天原本場に「百済村」を作ったり、日本での「百済」作りに懸命。
その中大?政治家が韓国で「騎馬民族説」を大学生に開陳、聖徳太子が建てた寺と言うだけで、学者が「四天王寺ワッソ」なる珍妙なお祭りを作りだし、之又行政が協力をする「頓珍漢」な日本の対応、少しは利口に振舞って欲しいものです。
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